宮本百合子の作品

 大いなるものの悲しみ!
 偉大なるものの歎き!
 すべての時代に現われた大いなるものは、押並べて其の輝やかしい面を愁の涙に曇らして居る。
 我々及び我々の背後に永劫の未来に瞑る幾多数うべくもあらぬ人の群は、皆大いなるものの面をみにくき仮面もて被い、其を本来の面差しと思いあやまって見ると云う痛ましい事実を抱いて居る。
 何物を以ても抗し得ぬ時代の潮に今日も明日もとただよいながら、しばしば私に迫り、ややもすれば私の四肢を、心臓をまひさせ様とした力強い潮流の一つを見出した。
 深い紺碧をたたえてとうとうとはて知らず流れ行く其の潮は、水底の数知れぬ小石の群を打ちくだき、岩を噛み、高く低く波打つ胸に、何処からともなく流れ入った水沫をただよわせて、蒼穹の彼方へと流れ去る。
 此の潮流を人間は、箇人主義又は利己主義と云って居る。
 私は、此の箇人主義、利己主義に大いなるものの歎嗟の吐息を聞いたのである。
 此の声を聞き得たのは私一人のみかもしれない。
 或る人々は、その様な事は誤った事だと、私の此れから述べる事をひていするかもしれない。けれ共、私は自分の五官の働きを信じて疑わない。
 私にとって、自分の眼、耳に感じた事が、自分に対しては最も正直な、或る事物に対する反影であると信ずるのである。
 そのかすかながら絶ゆる事のない歎きを聞く毎に私の心に宿った多くの事を私は明白のべるだけである。賞むる人、賞めない人のあるなしは、私の考を曲げる事は出来ない。

 箇人主義――利己主義、それは名の如く、何事に於ても、自己を根本に置て考え、没我的生活に対する主我的の甚だしいものである。
 主我!
 それは、真にたとうべくもあらぬ尊いものである。
 此の世に生れ出た以上は、自己を明らかにし、自己を確実に保つ事の目覚しさを希うて居る。
 何事に於ても、「我」が基になるほど確な事はない。
 神よりも自己を頼み、又とない避難所とし祈りの場所とする事は、願うべき事である。
 そう云えば、此の主我が主張する箇人主義、利己主義は真に尊いものであるべきである。完全なものであるべきである。
 それを、何故、此の主義は、子を奪い去って、老いた両親に涙の臨終を与え、又その子をもほんろうし歎かせ、やがては、淋しい最後の床に送るのであろうか。
 人々は、年老い、遠い昔に思を走せて居る一代前の人々の歎きを理由のないものとするかもしれない。
 わびしくこぼす涙を、年寄の涙もろさから自と流れ出るものと思いなすかもしれない。
 けれ共、その心を探り入って見た時に、未だ若く、歓に酔うて居る私共でさえ面を被うて、たよりない涙に※[#「さんずい+因」、424-3]ぶ様になる程であるか。
 私は静かに目を瞑って想う。
 順良な、素直な老いた母は、我子等の育い立ちを如何ほど心待って居る事であろう。
 日一日、時一時、背丈の延びると共に心も育って行く。いかほどの喜びを以てそれをながめて居る事であろう。いつか子の背は、我よりも高く、その四肢は、若く力強く、幾年かの昔、自分の持って居た若き誇り、愛情をその体にこめてある事と想うて居る。

 私とじいやとは買物に家を出た。寒い風が電線をぴゅうぴゅうと云わせて居る。厚い肩掛に頸をうずめてむく鳥のような形をしてかわいた道をまっすぐにどこまでも歩いて行く。〔九字分消去〕ずつ買った。又もと来た道を又もどると一軒の足袋屋の前に来るとじいやは思い出したように「そうそうおれの足袋が無かったわい」と云ってのれんをくぐると眼のくちゃくちゃした六十許のお婆さんは丸くなってボートレースの稽古をしながら店ばんをして居たが重い大きい足音におどろかされてヒョット首をもちあげてトロンとした眼をこすりながら「何をあげますか」とねむたい声できく。「十二文こうだかを一足くれて下さい」これも又ねむったそうな声である。「エ、十二文ノコウダカですか、十文のコウダカならありますがねー十二文ノコウ高はお気の毒ですね」始めて目のさめたようにはっきりした声で云った。きっとあんまり大きいので驚いたんだろう。じいやはやっぱりねむそうな声で「そうかっ」と云って又よたこら歩き出した。私はお可笑をこらえて「じいや田舎にはそんなに大きい足袋をはく人があるの」ときくと「いんえ、そうじゃあありませんが足人なみはずれて大きいんで田舎でもあつらえでなくっちゃあないから四十五銭はきっととられますわい」と云って肩をゆすって笑う。「田舎でもねー」と流石大足の私も十二文ノコウ高には少々驚かされる。二三町行くと又足袋屋があったらこんどのは今の家よりは構も店さきが大きく、三四人の番当や丁稚が火鉢をかかえて円くすわって一番年かさらしい一人が新聞のつづき物を節をつけて読んできかせて居たが「今晩」と云うどら声がいきなりひびいたので読のをやめて一度にふりかえったがじいやがあんまり変な形をして居るので眼を見合してニヤニヤして居る。じいやは一向そんな事にはとんじゃくなく「十二文ノコウ高はありませんかねー」と又ここでもくりかえした。「何をあげましょう」と云って出て来た十四許になる小僧は大きく目を見はって「エ、十二文ノ――コウ高ですって、十文のこう高のまちがいじゃあありませんか」と云って火鉢の方をふりかえってうす笑いをする。じいやはニヤリともしないで「なんぼもうろくしたっても自分の足の大きさまで忘れやしまいし」と云ってじれったそうにどぶ板をカタカタとふみならして居る。

 先日は脚本をわざわざまことに有難うございました。あれから丁度林町に出かけるところであったので、途中電車のさわがしさも忘れて拝見し始め、二三日うちにすっかり拝見致しました。いろいろの事を感じたので、早速、手紙を差上げたいと思いながら、少ししなければならない事があったので失礼致しました。
 真個に今日の、少し自分と云うものを考え、周囲に批判的な眼を持つ私共位の女性は、皆な同じ不満、希望、失望を経験するものでございますね。あの御著書全部を貫いている思想的傾向は、その普遍的な性質に於て、私共のものであるとさえ申せますでしょう。或る箇所では、宛然自分の心がそこに顕れて物語っているように感じました。其にしても、総ての感情、理智の燃焼を透し、到る所に貴女のろうたきいきどおりとでも云うべきものが感じられるのは、非常に私の感興をそそりました。
 きっと貴女の持っていらっしゃる詩興、詩趣によるものでしょう。結婚と云うものに対し、愛の発育と云うものに対し、抱いていらっしゃる貴女の全人的な趣味も其処にかなり多くの起因を持っているのではありませんでしょうか。
 私も、女性が――人間全体が――もっと人間らしい自由な輝ある生活をしなければならないこと、特に女が、醒め、しっかり自分を視、人生を空虚な時間的推移でなく送るべきことを、しんみり希望し、期待して居ります。
 勿論、そのためには、現在の諸状態が如何程不合理なものであるかも解っている積りです。けれども私は、或る状態の裡に全く偶然な機会によって出生した一人間が、自己の道をつける為、どんな努力をするか、失敗するか、終局に於いて成し遂げ得たかと云う全過程に深い愛と牽引を感じます。貴女は自分の愚かさ、間抜けさを、そんなに可愛がっていらっしゃらないでしょう。
 全く、王女のように賢く、「はかない定命の下に生れた女」と云う優しい憂鬱、同時に、美しい見識を以て、白鳥のように、生活していらっしゃりたく、又被居るのではないのでしょうか。私は極々人間的なのです、総ての見方が。それ故、自分並全人類の持つ痴愚や不完全さが、随分のところまで認容します。真個に大切な光りとなるものが消され、破られない程度までは。従って生活、人格の発育と云うことを、実際的にも抽象的にも、経験によって居ります。私の裡には、或る程度まで何でも感じて見たく、知って見たい未開人のような好奇心、よい場合には探求心がありますのです。面白いでしょう。私共の日常生活が、形式内容の上に違っているとすれば、それ等は皆、若し私の推察が誤っていなければ、異った二種の人生に対する impulse? によるものとも思えます。(中略)
 あの脚本は、私に智的にも、感情の上にもいろいろの閃きを与えて呉れたと云うことで、ほんとうに御礼を申します。又いずれゆっくりお目にかかりましょう。若し、私があの御本をとおして考えた貴女と云うものに大きな間違いでもしていたら、どうぞ御教え下さいませ。