小さめのカラコンも販売されています

カラコンというとやたらデカ目を強調したものが多いです。
しかし現在「小さめカラコン」というものも存在します。

小さめといってもレンズのサイズ自体は標準的なカラコンと変わらず、着色直径だけが小さめに設定されています。

小さめカラコンでまず挙げられるのがフォーリンアイズのミニシリーズのカラコンです。
フォーリンアイズは日本製のカラコンを扱っている数少ないメーカーのひとつなのですが、早いうちから小さめカラコンも販売していました。

以前はサンリオのキティちゃんとのコラボで「キティちゃんのようなつぶらな瞳」というようなテーマで小さめカラコンを販売していたと思います。

現在はサンリオとのコラボは終了していて小さめカラコンも若干リニューアルされました。

といってもおそらく有名メーカーの中ではフォーリンアイズのミニカラコンが一番着色直径が小さいと思います。

しかしフォーリンアイズのミニカラコンは1ヶ月使用タイプだけなのでワンデータイプの小さめカラコンが欲しい人はそれ以外のメーカーのものを探す必要があります。

ここではこれ以上詳しく書きませんが私が運営している下記サイトで小さめカラコンについてさらに詳しく解説しています。

カラコン 小さめ

宮本百合子

 小堀杏奴さんの「晩年の父」は、「安井夫人」から受けた鴎外についての私の印象の裏づけをして、いろいろさまざまの興味を与えた。父鴎外によって深く愛された娘としての面から父を描き、家庭における父の周囲に或る程度までふれ、文章は、いかにも鴎外が愛した女の子らしい情趣と観察、率直さを含んでいる。
 この趣の深い回想から、母親思いで「即興詩人」の活字を特に大きくさせたという鴎外の生涯は、その美しい噂の一重彼方では、一通りでなく封建的な親子の関係でいためつけられて来ていたこともうかがわれる。鴎外はそれと正面から争うことに芸術家としての気稟を評価するたちではなかった。それを外部に示さずに耐えている態度に叡智があるという風に処していたことも分る。ゲーテが現実生活に処して行ったようなやりかたを鴎外は或る意味での屈伏であるとは見ず、その態度にならうことは、いつしか日本の鴎外にとっては非人間的な事情に対してなすべき格闘の放棄となっていたことをも、鴎外自身は自覚しなかったであろう。
 杏奴さんが、自身の筆でそこまで歴史的に父の姿を彫り出すことの出来ないのは、寧ろ自然であるとされなければなるまい。

 鴎外の子供は、皆文筆的に才能がある。於菟さんも只の医学者ではない。このひとの随筆を折々よみ、纏めて杏奴さんの文章をも読み、私はこれらの若い時代の人々が文章のスタイルに於て、父をうけついでいるのみならず、各自の生活の輪が、何かの意味で大きかった父という者の描きのこした輪廓の内にとどめられていることを痛感した。
 漱石は、その作品の中で、生れて来る子供たちに向ってどうしていいのか、なるようにならせるしか手がない、と云っている。鴎外は反対であったらしい。「晩年の父」の中には、女学校に入る娘を博物館の勤めさきまでつれて行ってやって算術の稽古をしてやっている父鴎外の姿が、溢れるなつかしさをこめて描かれている。従って、子供たちが、有形無形に父から与えられているものは、深く、しっかり根を張っているであろう。女の子の心持にすれば、結婚をするにも父鴎外を自分に近い程度で敬愛するひと、少くとも熱中している自分の感情を傷けるようなものを(客観的にそれが正当な性質のものでも)持たぬひととの結合が、自ら生じがちであろう。
 長女茉莉子さんの長子が、やはり西洋風の発音で、漢字名をつけられている。そのように、根はひろく、ふかいのである。

 ト翁は、人間が結婚を欲するのは、情慾に動かされるからだ、と云って居るのを、彼の日記の中に見る。又、個人を愛するのには盲目に成らなければ愛せない。盲目に成らなければ只神と人類を愛し得るのみだ。――神性を愛するよりほか出来なく成る、とも云って居る。結婚の自然的な結果は生殖である。此は生理的の結果で、人間の内に神が死なない限り、人は只異性と公許の交接によって子供を産む事――その事実のみに幸福を感じて満足するものではないのだ。自分は結婚を肯定する。広い範囲に於て肯定する。単に、爾姦淫せざらん為に許りではない。人間は、より高大な、啓発された生活へ自分の霊を育てる為の助力者、試金石、として、先ず最も自分に近く、最も自分の負うべき自明の責任の権化である配偶を持たずには居られない本能を有するのではないか。
 少くとも、自分は自分の結婚に対して、以上のような本能的な直覚と信仰とを持って居た。そして、現在一年余の結婚生活の経験に於て、其は仮令非常に短時間ではあっても、最初の自分の考えは、全然間違って居たものではない事を認めて来た。
 人は、自分の裡に未だ顕われずに潜む多くの力の総てを出し切る機会を持たなければ、其等力の実値を体験する事は出来ない。
 人は結婚によって、少くとも或種の力を自覚させられ、其に就て考慮と反省とを与えられると思う。情慾の力強さ、其の持つ歓びと怖れと悲しみの錯綜した経験などは、其に実際当って見なければ、其がどれ程まで霊と密接なものであり、畏るべきものであるかと云うことは分るまい。
 自分は、二元論者ではない。其故、或時代の人々のように、人間が――異性の間に於て、魂と魂との交通に於てのみ真実な愛の価値があるとは思わない。
 然し、結局に於て収穫と成るものは何かと云えば、経験の綜合から起る真理への進展である。そして、その真理は、只真理に憧れる事を知って居る霊のみが為し能う事なのだと云う事を、私共は忘れてはいけない。若し、子を産む事のみが結婚の全的使命であり、価値であるならば、或場合、非常に相互の魂を啓発し、よき生活に導き合った一対の夫婦が、一人の子をも持たなかった場合、其等の人々の経た結婚生活の価値は如何う定められるべきなのだろう。

 もし私が肖像画家であったら、徳田球一氏を描くときどの点に一番苦心するだろうかと思う。例えば、徳田さんの眼は、独特である。南方風な瞼のきれ工合に特徴があるばかりでなく、その眼の動き、眼光が、ひとくちに云えば極めて精悍であるが、この人の男らしいユーモアが何かの折、その眼の中に愛嬌となって閃めくとき、内奥にある温かさの全幅が実に真率に表現される。それに、熱中して物を云うとき、体じゅうに押し出されて来る一種類の少いダイナミックな空気を画家だったら、どんな工合に捉えて再現するのだろう。
 徳田さんのもっている色調はきついチョコレートがかった茶色であり、それに漆がかっているような艷がある。風化作用に対して、いかにも抵抗力のきつい感じである。若さは、この人物のうちにあって、瑞々しいというようなものではなく、もっと熱気がつよく、動力蒸気の噴出めいている。
 話しの合間合間に交えられる手振も徳田さん独特だし、その手の指には網走の厳しい幾冬かが印した凍傷の痕があるのである。大いに笑う彼の顔を見て、一緒に大笑いしずにいることは困難であろう。
 或る演説の中で、徳田さんは、日本婦人の一般は、本人たちが自覚している以上のおどろくべき運命に陥っていると語った。そして日本の婦人は誰もが自由にかつえているばかりでなく、愛情にも飢えていると断言した。
 私は、こうした着眼点を知って、徳田さんの人間的感覚に改めて注目した。徳田さんの意味する愛情は、女対男の限られた範囲のものではなく、女の生活全面に配られるべき人間らしい思いやり、方策、現実的な援助としての愛情を、日本の婦人は実に貧寒にしか享けていないという意味なのであった。